「時間」「数」唯の概念に過ぎない
ほんの一瞬だけ、存在するということがあるか。というと、それは存在とは言えない。 つまり「存在」とは「存続」に他ならない。 従って存在に期間(時間)が不可欠。 しかし、「時間」とは唯の「概念」であって、ここにある、という現存するものではない。 つまり「時間」というものは存在しない。 もしこれが分かりにくければ「数」を考えてみれはいい。 「数」も「概念」であって、現存するものではない。例えば「∞(無限大)」は言うに及ばずありふれた「3」「1,324,651,548」「-1」などは、思考、認識、計算などのために必要不可欠だが、しかし唯の概念に過ぎず、どこかに現存するというものではない。
もう一つの実例: 誰でも「夢」を見る。しかしそれは、頭の中のシーンの記憶であり、現存しないし、単なる過去ですらない。 流石に誰でも自分の見た夢が、現存しているとは考えない。何故かと言うと、自分の中だけのものだからである。つまり共有されない。
しかし、「時間」や「数」は万人に「共有された概念」なので、現存するもののように勘違いしてしまう。 存続と時間の件に話を戻そう。
過去、現在、未来 という表現がある。「存続」を考えるうえで、欠かせない概念である。 過去は、言わば「決定事項」であり、未来は「未定事項」である。そしてその境目が「現在」である。 この「境界線」だけが「現存する」 無論「境界線」そのものも概念でしかない。しかし、現存は確かであり、寧ろ、唯一これだけが「存在」そのものである。 「境界線」には幅(長さ)はない、「位置」であり、位置でしかない。
コンピュータの画面上で、現在自分が操作している位置や文字の入力位置を指し示す目印(記号)を示すために「カーソル(Cursor)」と言うものがある。
時間という概念上の「今」という概念はこのカーソルである、時間の流れとはこのカーソルの等速移動であり、「時間」という現存する何か別の要素と合体、連動しているかのようなイメージがあるかも知れないが、実は「時」は「存在」に包含されている。 先に「存在」は「存続」とイコールであると書いた。 当にこの語に、それが反映されている「存の続」こそが、「存」であり「在」である。
ルイ・パスツールが「生命は生命からのみ生まれる」ことを科学的に証明したが、「存在」は「存在」からのみ生ずる。 仮に「ビッグバン」のような世界を仮定してみても、「それ以前」には「エネルギー」が「存在」していなければならない。
その全ての源が「創造者」であり、宗教の世界では「神」と呼ばれている。 そして「神」は時間を超越している存在、などと解説されることもあるが、より的確には「時間的要素」として認識するものを「包含」した存在という方が、的確な気がする。
聖書には「私は在る(「エヘイェ・アシェル・エヘイェ(Ehyeh Asher Ehyeh)」」と自己紹介されたヤハウェが「存在」の源であると示されている。
※旧約聖書の『出エジプト記』(3章14節)に記された、神がモーセに名乗ったヘブライ語。一般的に「我は在って有る者(I AM THAT I AM)」と翻訳される。
人間が、その与えられた理知という賜物を活用して、様々な概念を駆使して、「存在」と認識できる物理現象(時間的概念を含む)を捉える営みを通して、(目に見える、その存在を確認できる)万物は、(目に見えない、その存在を確認できない)「在るもの」に有されているという事実、まさに「我は在って有る者」という「存在」を確認することが期待されているのであろう。
ゼノンの指摘したパラドックスは幾つかあるが、いずれもすべて「概念」のパラドックスであり、現実のパラドックスではない。私に言わせれば稚拙な落とし穴である。
この「概念」と「現実」の混同は、現代にも普通に見られる。 「存続」に見られる「運動/変化」こそが、「時間的要素」であり、概念としては、ストップショットは可能だが、明らかに非現実。これを現実上に当て嵌めてパラドックであるという主張はナンセンス。
カーソルに幅がないというのは、存続の一瞬を切り取った、あくまで概念上の表現であり、「今」という事象(概念ではない)の継続こそが「存続」=存在であり、現実である。 故に、存在自体が、その概念によって脅かされることはない。