「キリスト教」という宗教は、サタンによって創られた偽の教えであるという聖書的根拠
「キリスト教」という宗教は、サタンによって創られた偽の教えであるという聖書的根拠
ここで、「反キリスト」という語が登場する聖句を取り上げてみましょう。
■【ヨハネの手紙だけに見られる「反キリスト」】(聖書中に5箇所)
Ⅰヨハネ 2:18《子供たちよ、終わりの時が来ています。【反キリスト】が来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの【反キリスト】が現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。》
Ⅰヨハネ 2:22《偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ【反キリスト】です。》
1ヨハネ 4:3 《イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、【反キリスト】の霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。》
2ヨハネ 1:7 《このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリスト】が肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、【反キリスト】です。》
ここで先ず抑えておきたいのは「アンチ」という単語の意味です。
例えば「アンチ・ジャイアンツ」のように、ジャパナイズされた「アンチ」は「反対」という意味しかありませんが、この英単語の語源のギリシャ語「アンティ」の本来の意味は「代替」という意味の語です。(instead of, in place of, because of) 聖書中ではもっぱらその意味で使われています。 ですから「アンティ・クリストス」を「反キリスト」と訳しても間違いではありませんが、「代替キリスト」「偽キリスト」と訳すほうが適切でしょう。
さて、Ⅰ-4:3では、「やってくると聞いていた」のは、イエスが肉体で来られたということを否定する【霊(精神、論調)】であり、必ずしも「反キリスト」という特定の人物が登場するという事ではなく、そうした傾向を示す(吹聴する)者が実際に現れているゆえに、あれもそう、これもそうという、様々な【反キリスト】のを表す、偽の教えを教える者たち。ということです。
つまりヨハネが指摘しているのは、決して人物像ではなく、「教え」そのものです。 それはとりもなおさず、「キリストの教え」のアンチ(代替物)にほかなりません。 当に「偽キリスト教」がすでに台頭しつつあるという警告です。
これから注目したいのは「今や既に世に来ている」(Ⅰ-2:18; Ⅰ-4:3)とヨハネが述べている「今」とはいつのことでしょうか。 ヨハネの福音書と3通の手紙は、およそ西暦85~90年頃に記されたとされています。 この頃すでに「偽キリスト教」は現れていました。 そして、そのことは、かねてから聞いていたことだと述べています。具体的にどのような表現で聴いていたのでしょうか。 ここから、聖書に預言されている「偽キリスト教」の到来とその教えの特徴を読んでゆこうと思いますが、その前に一つだけ、興味深い聖句を考慮しておくことにしましょう。
■「魚」と「蛇」の関係
ルカ 11:11 🕮〖あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。〗 ἀντὶ ἰχθύος ὄφιν (アンティ イクトゥス オフフィン) つまり「蛇」は「アンチ魚」であるということです。 ところでこのことから、「魚」がキリスト教のシンボルになった経緯を考えると面白いことが分かります。
魚( ΙΧΘΥΣ / イクトゥス)は、初期キリスト教徒がローマ帝国の迫害下で使った「秘密の符牒(あいことば)」にあると言われます。
3〜4世紀に広く使われるようになりました。カタコンベの壁画などにも残っています。
ギリシャ語のアクロスティック(頭文字語)
ギリシャ語で「魚」を意味する言葉 ΙΧΘΥΣ(イクトゥス)。
これを分解すると、次のギリシャ語の頭文字になります:
Ιησοῦς(イエス)
Χριστός(キリスト)
Θεοῦ(神の)
Υἱός(子)
Σωτήρ(救い主)
「イエス・キリスト、神の子、救い主」という信仰告白そのものを表す言葉になり、この語呂合わせ(アクロスティック)が、魚のシンボルがキリスト教の信仰を象徴する核心だといわれている。 誰が考え出したが知らないが、実に見事なまでによくできた象徴である。
寧ろこの「さかな」こそ、アンチ魚 その実態は「蛇」である偽のさかなであり、魚の代わりに蛇を与える父親こそが、サタンであるということでしょう
■「キリスト教」という宗教は、サタンによって創られた偽の教え
「偽キリスト教」の特徴】
「小麦と毒麦」 まずイエス・キリストご自身による喩えですが、 マタイ13:25,26《人々が眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。》 13:29《毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。》
特色: 後から蒔き足された。一見見分けがつかない。
パウロは西暦56年ごろ,ローマのクリスチャンにこう書き送っています。
ローマ16:17,18《あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまづきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。》
特徴: 「分裂と躓きを引き起こす」「純朴な人たちの心をだます」(人を惑わすもの)
こうした状況は,使徒たちが亡くなるとさらに悪化することが考えられます。パウロは警告しました。
使徒 20:29,30《私が出発したあと(去った後:新共同訳)、凶暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。》
エペソからエルサレムに帰った後、聖霊により「なわめと苦しみが私を待っている」と繰り返し告げられたこともあり、自分の生存がもう長くないことを悟っていたことが伺えます。
20章の最後の節は《彼が、「もう二度と私の顔を見ることがないでしょう。」と言ったことばによって、特に心を痛めた。それから、彼らはパウロを船まで見送った。》という文で終わっています。 エペソの教会を立ち去ったら直ちに入れ替わりにということも考えにくいので、おそらく、「曲がったことを語る者が教会内に入り込んで来ること」の抑止力となっていたパウロが地上の表舞台から去った後ということを意味しているに違いありません。
これが書かれたのは西暦60-61年頃ですから、それ以降、そうした兆候はすでにみられ、ヨハネが「反キリスト」について記した西暦85~90年頃には、明確なかたちで大勢現れていたということです。
■【随所に見られる「反キリスト」の影響に関する記述】
2コリント11:13,5《というのは、もしある人がきて、わたしたちが宣べ伝えもしなかったような異なるイエスを宣べ伝え、あるいは、あなたがたが受けたことのない違った霊を受け、あるいは、受けいれたことのない違った福音を聞く場合に、あなたがたはよくもそれを忍んでいる。 こういう人々はにせ使徒、人をだます働き人であって、キリストの使徒に擬装しているにすぎないからである。 しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから。 だから、たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない。彼らの最期は、そのしわざに合ったものとなろう》
1テモテ4:1《しかし、“霊”は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。》
2ペトロ 2:1-3 《かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。 自分の身に速やかな滅びを招いており、 しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。 彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。》
(※この引用聖句中の「異端をひそかに持ち込み」という訳は問題がありますが、ここではタイトルから逸れますので、巻末に脚注として記しておくことにします。)
ローマ16:17,18《兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。 こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです。》
ヘブライ 6:4-6《一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、 神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、 その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。 神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。》
(ここでは”十字架”は救いのシンボルどころか、”侮辱”の象徴だとしています。)
2テモテ4:3,4《人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。》
「後の時代になると」とは、パウロを初め、他の使徒たちが順に死に、その影響力が弱まるにつれて、教会内に「毒麦」のような不純なもの、つまり偽クリスチャン、偽教師たちが次第に幅を効かせて行ったということでしょう。 そして、晩年のヨハネの頃には、「大勢の反キリストが現れている」という状態になっていました。
■【「反キリスト」が現れる「終わりのとき」とはいつ?】
ヨハネが、「終わりの時に」と述べているのは、そうした、クリスチャン会衆(教会)が発足したペンテコステのとき以来、奇跡的な賜物の故に華々しく一時代を彩った世代の終わりの時に。という意味に違いありません。 このことは、ヨハネの手紙の一つの特徴からも伺い知ることができるかと思います。 その特徴とは、ヨハネは「最初から」とか「最初の」という言葉を多用していると思えることです。 拾い上げてみましょう。
1ヨハネ 1:1《初めからあったもの、私たちが聞いたもの・・》
1ヨハネ 2:7 《これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です》
1ヨハネ 2:24《あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。》
1 ヨハネ 3:11《互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めに聞いている教えです。》
2 ヨハネ 1:5《私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが・・》
2 ヨハネ 1:6《命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。》
言い換えれば、年月の経過とともに、様々な変節の影響を危惧して、あたかも、今が、「終わり」を迎えつつあるという感覚が強く働いていた故に、今後の継続すべきものを確認し念を押す響きが感じられます。 それらの記述から「初めから」聞いているクリスチャンとしての基本を死守するよう言い残しておきたいというヨハネの思いを感じます。
ヨハネ自身 老齢でしたが、それだけでなく、ペンテコステ以来の使徒たちを中心とした偉大イベントの幕が降りようとしていることを悟っていたに違いありません。 ですから一つの結論として、ヨハネだけが用いている「反キリスト」という呼び名と、それらが現れる「終わりの時」とは「使徒たちの時代が終わる時」を示す限られた期間に違いないということです。
「反キリスト」にはそれ以上を意味する、終末期に関わる預言とみなす聖書的根拠は存在しないということです。 「反キリスト」はすでに、1世紀当時の終わり頃現れ始め、ヨハネの晩年には「大勢」現れていました。 そして、それは、消えることなく勢力を増し、むしろ人数的に逆転し多数派になってゆきます。
まさしく、「キリストの教え」は「皿に載せた、魚のような形をした蛇」が食卓に並ぶような状態として、西暦4世紀頃には「Anti-Christianity 偽キリスト教」に完全に「すり替えられていた」ということです。 イエスが、「狭い門を見出しているものは稀であり、滅びに至る者のほうが多い」と言われたのはそういうことです。
そしてそれは現代にまで及び、「反キリスト」はこれから出現するものではなく、「小麦」とされるクリスチャンを凌駕し、実際は「反キリスト」である、「毒麦」からなる自称クリスチャンが圧倒的に多数存在しているということです。
これはすなわち、端的に言えば、使徒たちが去った後の時代の「キリスト教」には「反キリスト」の影響が色濃く反映されているというのが真実の姿だということです。
さて、少し話が前後しますが、ここで改めて、ヨハネの述べる「反キリストの霊」とはどのようなものなのかを明らかにしておきたいと思います。
■【「み父とみ子を否定する」とは?】
「み父[と]み子を否定する」とは、具体的にどういうことでしょうか。 例えば「み父[も]み子[も]否定した」としたら、それは単に無神論者か、少なくとも「キリスト教」とは全く無関係な存在でしょう。 では「神(ヤハウェ)は認めるし、イエスという人物も認める」人はどうでしょうか。 それは「み父とみ子を肯定している」と言えるでしょうか。 Ⅰ-4:3には「イエスのことを公に言い表さない霊はすべて反キリスト」という表現がありますから、そうした人々も「反キリスト」の部類に入るのでしょうか。
それは違うでしょう。なぜなら、多くのユダヤ人の見解はそのようなものでしょうから、1世紀初頭から常にそうしたスタンスですから「後に現れると聞いていいる者」というものではないからです。
つまりこの表現は取りも直さず、そのお二方の「関係性」を否定するということでしょう。 そしてこれは極めてセンシブルな問題を含んでいます。 み子ご自身が、ご自分と神について語られた部分は、文字通り「神妙」なものであり、改めて背筋を正すことをすべてのクリスチャンに促すはずです。
ルカ 10:22 《子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。》
・・何と「誰も見たことがない」み父以上に、人間となって人々の間に生活された、み子こそ、よりミステリアスな存在だと言うことです。 それゆえ「・・こう考えられるが、「誰も知らない」と言われている故に、今のところ、神とは誰か、(何か)と言う事を断言できる聖書的な根拠がありません。」と言うのが、本来あるべき「神学」の姿勢ではないでしょうか。 「キリストによって蒔かれた「小麦」の畑に「毒麦」が大量にバラまかれるというキリストの警告的な預言を忘れてはなりません。
さてそれはともかく、ここで、325年のニケーア公会議に始まる数回の公会議を通じて、キリスト教の正統教義とされた「三位一体」について、若干の言及をしておきたいと思います。
「子」がどういう者なのかは「誰も知り得ない」と断言されている以上、神は三位一体かもしれませんが、しかし、全くそうでない可能性も否定はできないという事実を覚えておくべきでしょう。
あくまで、キリストは、元来神の独り子であり、肉体を持った人間として、み父によって地に遣わされたということを認めるということであり、それ以上でもそれ以下でもないということ。聖書に明らかに示されていることを、そのまま素直に受け入れ、信じ、そして公言するというシンプルな姿勢が一番です。
「子」がどういう者なのかは「誰も知り得ない」にも関わらず「父と子は一体であり同等である」というような主張が、もし間違いであったなら、「み父とみ子」を「否定」しているわけではないかもしれませんが、その関係性を甚だしく捻じ曲げていることになり、やはり「反キリスト」の部類とみなされるのは必至でしょう。
ですから、分からないこと、分かりようのないことを、断定的に、声高に公言したりせず、「神の実態についてはよく分からない」としておくのが身のためだと思います。そうすれば、万が一でも自分が「反キリスト」の部類に入ってしまうことを避けられるでしょう。