「信仰」と「宗教」の区別がつかなくなって数千年
日本人のための 聖書レクチャー「信仰心(信心)」と「宗教」の区別がつかなくなって数千年に及ぶが、人の「信仰心」の最も基本的、根源的な心理は「畏れ」である。 「神仏」などという表現にも表される、人よりも上位の対象に対する「おそれ」の感性の現れである。
古い日本語に「かしこむ」というのがある。これにも「畏」の漢字が当てられ、「畏む」と書かれる。 今でも残っている表現としては「畏まりました」という表現の本来の意味は、謹んで承る(うけたまわる)というような敬意を含んだ表現である。
畏れ多い、尊いと感じて慎むこと、または謹んで命令などを受け入れることを指す、古文では「畏まる」の原形として、貴人や神仏に対して身を低くする意味で使われる。
「畏れ」とは、先ず「慎む/謹む」ことであり、「つつしむ」とは、辞書によれば以下である。
1 あやまちや軽はずみなことがないように気をつける。慎重に事をなす。 2 度をすごさないようにする。控えめにする。節制する。 3 (「謹む」と書く)うやうやしくかしこまる。
つつしむ の語源は「包む」であり、包んで、なおかつ、しめるというのがつつしむ。 なぜ、包む必要があるのか。 見せてはいけない、露わになhttps://youtu.be/ELAN_nAZy2Yってはいけないものが、現れてしまうからである。 恥とは、その露わになってはいけないものを、隠す、差し控えるべきということの働きである。
■「恥」と「宗教」は不可分の関係にある。 ■「信仰心(信心、崇拝本能)」は「恥(罪)」によって歪められ、本来あるべき健全な形で現れない。
言い換えれば、「恥」の感覚が取り除かれた時、「神」すなわち「自分を存在せしめた源」に対する自己認識というか、責任のとり方に対する具体的な感覚が目覚めた。 人間の「信仰」心 「罪」の意識から生じた。 アダムとエバは、神の前に、包み隠さねばならないものは一切なかった。 そのままの存在で、神の前に立つことができた。
創世記 2:25 🕮〖人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。〗
ところで、ここでの「裸」は単に衣服を纏っていないという物理的な「裸」の話ではない。 この時点での「裸」 堕落前(2:25)の「裸(無垢)」の状態と、堕落後(3:7以降)の「裸」は同一の単語ではない。 これは興味深い。後者は「裸(無垢ではない)を気づいた」状態。 「何も覆い隠さない透明さ」という肯定的なイメージが強い
「それが、あるべきあるがままの状態なので、自分が「裸だ」という意識そのものが存在しない状態。
善悪の知識の実を食べた後の「裸」はそれとは全く違う。
罪の自覚・羞恥・脆弱性・神からの隠れたいという恐れが伴います。単なる物理的な裸ではなく、関係性の破れを象徴してい
同じ「裸」という概念でも、堕落によってその本質(無垢 → 恥と脆弱性)が変わったことを、読者に静かに気づかせる工夫です
これが、神と人の、ありのままの本来のスタンスであった。 「信仰」のもう1つの「現れ」は「捧げ物」 人は、上位に対して、引け目を感じ、何某かを捧げる、もしくは返却が求められているという、感覚が宿っている。 「引け目(ひけめ)を感じる」とは、 他人と自分を比較した際に、自分の能力、立場、容姿などが相手より「劣っている」「不足している」と感じ、肩身が狭かったり、気後れしたりする心理状態のこと。
あるいは「罪悪感」と表現される感覚。 「埋め合わせ」が必要とされる関係
これらの「感覚」が人を駆り立て、アニミズム的な原始の信仰の「起こり」の要因であり、それらが、積み重なり、様式化し、体系化して次第に「宗教」と呼ばれるものを形成した。
すなわち、宗教そして、その前の「信仰」は「罪」と直結しており、創造直後の人間には無縁のものであり、神と人はただ、人間に付与された「霊性」Sprituality精神性 だけでコミュニケートする関係であった。つまり、信仰も宗教も全く不必要
つまり、神との本来の関係に戻るために付与された感覚が「信仰」であり、それを誤用。悪用したものが「宗教」である。 神と人との関係が、完全に復帰した時点で、「信仰」はその働きの目的を完遂し、不要となる。
これは、ある人たちのは、極めて以外に思えるかも知れないが、聖書の中に「信仰」が永遠であると書かれている箇所は存在しない。またそのように示唆する表現もない。
この意味で「信仰」は「天国」と、全く同じく、「罪」が生じたために、用意された、回復の手立てとして、特定の期間機能するものとして備えられたもの。 「天国」が、千年後にその役目を終えた時、「信仰」も終わりを迎える
コミュニケート(communicate)とは、 情報、意思、感情などを相手に伝える、やりとりする、または通信するという意味です。単に情報を送るだけでなく、相互理解や意思疎通を図るニュアンス
「信仰」は説得という言葉から派生した。 信仰と愛と希望 信仰は、望んでいることに対する保証、説得力をもたせるもの つまり希望の保証が信仰。 希望は成就した時、終わる、愛はそうではない 信仰も成就した時に終わる。 希望は、永遠ではない。 それは、回復の希望であるから、 その後は、同じ待ち望むものではあるが、それは、希望ではなく、神の計画への期待であり、神の目的に対する参加である。
信仰と希望のを超えた所に、神の業への永遠の参加がある。